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桃井富範個人のページ
                                 弓 筆人

 地球最初の生命は太古海底の火山、深海の温泉から生まれたという。日本人は、いや広く人類や獣までもが温泉を好むが、それは私達が生命の記憶を溯っている証かもしれない……。

 私は妻と北海道を旅することとなった。
 かつてより自然あふれる北の風土に魅力を感じていたのだが、このたび退職を機に銀婚の祝いを兼ねて北海道の温泉地を巡ることとなったのである。
 堅実で安定した仕事だったが決して楽じゃなかった。退職まで無事勤め上げられたのは妻の内助の功あってのことだろう。
 女性とからっきし縁のなかった私を気遣って優しく想いを寄せてくれた。
 晩婚だったが子宝にも恵まれ一女を授かった。この度の旅行を後押ししてくれたのも娘だ。
 私は北海道の外に住んでいる日本人で、後で知ったのだが北海道に住んでいる方々からすると俗に謂う内地の生まれで少々の不安もあったが彼らは往々に懇切丁寧に私達に接してくれた。どうやら北の大地開拓の先頭に立ち北海道に移り行く人々の艱難辛苦を経験していた彼らには北海道外の人々を優しく受け入れる素地があらかじめ備わっているらしい。
 当然ながら少々のトラブルも発生したが英語のTravel(トラベル)とTrouble(トラブル)は本来の語源を共にするという図書館で読んだ一節を思い出し、妻と二人の冒険として楽しむよう心がけた。
 こうして黄葉紅葉の色づく秋の到来と共に開始した私達の旅はまさらな夜空に粉雪の舞い降りる冬の始まりに無事末依を遂げた。

 ところで、これからこの旅のなかでも特に印象の深かった体験を語らせていただこう。それはこの文章のタイトルとなった北海道の長靴渡島檜山半島は八雲落部(本来アイヌ語のオトシベツからオトシベ、それに漢字を当てて落部となったらしいが、語路、つまり音の響きがいいので銀婚落部『ぎんこんおちべ』と題している)の地、二代館主の但し書によると先住民族(アイヌの人をさすのであろう)が狩猟の際常浴していたという歴史ある温泉で戊辰の役に榎本武揚氏率いる幕軍の負傷者湯治で一躍名を馳せ大正14年5月初代館主川口福太郎氏が熱湯大量噴出に成功し大正天皇銀婚の慶日にあたり銘名を行った深山幽峡に囲まれた名泉銀婚温泉での出来事である。

 北海道ならではの広々とした風景を特急北斗で楽しみ八雲駅で下車してから一両編成列車で落部駅に到着すると感じのいい青年が迎えに来てくれる。車に乗せてもらって数十分、

 上『かみ』の湯を辿るとそこは彩侯だった。

 黄紅に光り輝く樹々の芸術、これが時と共に艶やかに表情を変えるのである。
老舗の清閑な佇まいの宿で妻と二人息をつく。
 内湯以外にも4つある外湯の温泉が趣に富んでいる。
 料理長の腕による地元の名産を活用した料理も闊達にして繊細であり手の込んだ献立に感心する。
 温泉で知りあった老夫婦がこの温泉のことを詳しく教えてくれた。彼らが言うには私達はとてもいい時期に訪れたらしい。明媚の時期だというのだ。冬になると山が睡りに入り春から夏だと山の精気が剰り窓景がいいだけに夜間灯し火をつけていると窓の周移で蟲の生命のざわめき已まず百鬼夜行の烈を成すのだとか。
 しかしながら冬の枯山水や春夏の野趣あふれる風情を楽しみにする愛好家も多いという。
 ところで出来事とは以下の通りである。
 ブレーカーが落ちたのだ。銀婚温泉に十日ほども滞在していたのだがちょうどその日の夜どうやら電気系統が故障したらしい。
「あら、どうしたのかしら?」
 妻の声が出会って間もないときのように妙に艶かしく響く。それから娘の出産数十年来私達は夜を共にした。
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